1969年から続く知多市の理容室 トータルプロデュースサロンHAMAYU インタビュー

No.03
トータルプロデュースサロン
HAMAYU
Total produce salon in Nishino-dai Chita
話し手
owner
話し手
Total Produce Salon HAMAYU
濵野弘照・英理夫妻
愛知美容専門学校を卒業後、20歳で上京。東京・大阪の理容店で10年働いたのち、実家の理容店「はまゆう」へ。2010年、結婚を機に店を全面リニューアルし、「トータルプロデュースサロン HAMAYU」として再出発した。 愛知県知多市出身。
聞き手
interviewer
聞き手
ライター
後藤 麻衣子
名古屋・岐阜で活動するフリーライター。情報誌の編集・印刷媒体の企画などを経験したのち、独立。今の職に就く以前は、1年間ほど美容院で働いていた経験もある。理容店へ来たのは、中学2年生まで父と一緒に通っていた近所の床屋以来。
#03-2

東京と知多、感じたギャップと解決策

濱野さんがこの業界を目指したのはいつですか?
14歳の時に、すでに宣言してました。
そんなに前から?
中学2年の時に、学校で「立志式」があったんです。
江戸時代、14歳は成人の扱いで、
髪型や服装をあらためて冠をつける「元服の儀」がありました。

それに倣って、大人の仲間入りをした記念に、自分の夢、将来の志を発表する式でした。
その時にはもう「理容師になる!」と。
はい。
「東京や海外で修行を積んで、家の理容室を継ぐ」って宣言したのを覚えています。
実際に東京には行きましたし、理容師にもなりました。
家も継いだけど、唯一、海外には行けなかったなぁ。
そんなに前から決めてたなんて、頼もしい息子さんだったんですね。
どうなんでしょうね。
母親は「無理に継がなくてもいい」なんて言ってたけど、
結局はマインドコントロールされてたのかもしれないです(笑)。
濱野さんがこの業界で働き出したのは、何歳の時だったんですか?
美容の専門学校を卒業した年なので、20歳の時です。
卒業後は、東京の理髪店に就職しました。
大阪にも転勤になりましたが、計9年間、その会社にお世話になりました。
なぜ、東京に行こうと思ったんですか?
単純に、都会に憧れて。

東京で働いていた理容店は、業界の中ではわりと大きな企業で、
当時、東京都内に6店舗、大阪に4店舗展開していました。

ハイクラスな客層をターゲットにしている店で、客単価が1万円を超えてたので、
価格は普通の理容店の2.5倍や3倍くらいだったと思います。

店内も高級感のある雰囲気でしたし、個室での個別対応にも、サービスの充実にも、
とことんこだわっていました。

例えば、財界の方だと「かぶっちゃいけない」お客さんっていらっしゃるんですよね。
そこは店側が予約のコントロールまでしてましたし。
と言うことは、常連さんが多いお店だったんですか?
そうですね。
新規客を断っていたわけではなかったんですが、
常連さんやご紹介のお客さんが多かったです。

技術的なことはもちろんですが、接客サービスにも力を入れていたので、
接客のイロハはここでみっちりと学びましたね。
そのお店を辞めて、知多に戻ってきたのは?
30歳になる年です。
きっかけは?
祖父の体調が悪くなって、
母から「看病に専念したい」と相談があったのもきっかけでした。

僕自身、いずれはこっちに戻って継ごうと思っていたので、
今かもしれないな、と思って。
東京からこっちに戻ってきた時は、戸惑いはありませんでした?
それはもう、ありましたよ。

東京の店は、接客レベルも高ければ客単価も高かったんです。
自分としてはそういう接客しかできないけど、こっちだと実際にお客さんが落としていく額は違うし、そもそも店に来てる目的すら、違う気がしてきて。

そこをどう自分の中で飲み込んでいくのか、悶々としていた時期はありました。
でも、だからと言って価格を上げるわけにもいかないし、
接客レベルを下げることもできない。

だったら、この店にしかできないことをしようと思ったわけです。
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