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オーナーさんへのインタビュー

1969年から続く知多市の理容室。2010年9月にリニューアルするタイミングで携わらせていただき、コムデザインラボとして独立して初めて手がけたお店です。デビュー作でもあり、アイデアマンであるオーナー濱野氏との数々の仕事の経験が、KOM のブランディングの原点であるため、共に歴史を作っている、そんなお店です。(代表タカギ談)
愛知美容専門学校を卒業後、20歳で上京。東京・大阪の理容店で10年働いたのち、実家の理容店「はまゆう」へ。2010年、結婚を機に店を全面リニューアルし、「トータルプロデュースサロン HAMAYU」として再出発した。
愛知県知多市出身。
名古屋・岐阜で活動するフリーライター。情報誌の編集・印刷媒体の企画などを経験したのち、独立。今の職に就く以前は、1年間ほど美容院で働いていた経験もある。理容店へ来たのは、中学2年生まで父と一緒に通っていた近所の床屋以来。
濱野さんがこの業界を目指したのはいつですか?

14歳の時に、すでに宣言してました。

そんなに前から?

中学2年の時に、学校で「立志式」があったんです。
江戸時代、14歳は成人の扱いで、
髪型や服装をあらためて冠をつける「元服の儀」がありました。

それに倣って、大人の仲間入りをした記念に、自分の夢、将来の志を発表する式でした。

その時にはもう「理容師になる!」と。

はい。
「東京や海外で修行を積んで、家の理容室を継ぐ」って宣言したのを覚えています。
実際に東京には行きましたし、理容師にもなりました。
家も継いだけど、唯一、海外には行けなかったなぁ。

そんなに前から決めてたなんて、頼もしい息子さんだったんですね。

どうなんでしょうね。
母親は「無理に継がなくてもいい」なんて言ってたけど、
結局はマインドコントロールされてたのかもしれないです(笑)。

濱野さんがこの業界で働き出したのは、何歳の時だったんですか?

美容の専門学校を卒業した年なので、20歳の時です。
卒業後は、東京の理髪店に就職しました。
大阪にも転勤になりましたが、計9年間、その会社にお世話になりました。

なぜ、東京に行こうと思ったんですか?

単純に、都会に憧れて。

東京で働いていた理容店は、業界の中ではわりと大きな企業で、
当時、東京都内に6店舗、大阪に4店舗展開していました。

ハイクラスな客層をターゲットにしている店で、客単価が1万円を超えてたので、
価格は普通の理容店の2.5倍や3倍くらいだったと思います。

店内も高級感のある雰囲気でしたし、個室での個別対応にも、サービスの充実にも、
とことんこだわっていました。

例えば、財界の方だと「かぶっちゃいけない」お客さんっていらっしゃるんですよね。
そこは店側が予約のコントロールまでしてましたし。

と言うことは、常連さんが多いお店だったんですか?

そうですね。
新規客を断っていたわけではなかったんですが、
常連さんやご紹介のお客さんが多かったです。

技術的なことはもちろんですが、接客サービスにも力を入れていたので、
接客のイロハはここでみっちりと学びましたね。

そのお店を辞めて、知多に戻ってきたのは?

30歳になる年です。

きっかけは?

祖父の体調が悪くなって、
母から「看病に専念したい」と相談があったのもきっかけでした。

僕自身、いずれはこっちに戻って継ごうと思っていたので、
今かもしれないな、と思って。

東京からこっちに戻ってきた時は、戸惑いはありませんでした?

それはもう、ありましたよ。

東京の店は、接客レベルも高ければ客単価も高かったんです。
自分としてはそういう接客しかできないけど、こっちだと実際にお客さんが落としていく額は違うし、そもそも店に来てる目的すら、違う気がしてきて。

そこをどう自分の中で飲み込んでいくのか、悶々としていた時期はありました。
でも、だからと言って価格を上げるわけにもいかないし、
接客レベルを下げることもできない。

だったら、この店にしかできないことをしようと思ったわけです。

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