14歳の時に、すでに宣言してました。
そんなに前から?
中学2年の時に、学校で「立志式」があったんです。
江戸時代、14歳は成人の扱いで、
髪型や服装をあらためて冠をつける「元服の儀」がありました。
それに倣って、大人の仲間入りをした記念に、自分の夢、将来の志を発表する式でした。
その時にはもう「理容師になる!」と。
そんなに前から決めてたなんて、頼もしい息子さんだったんですね。
どうなんでしょうね。
母親は「無理に継がなくてもいい」なんて言ってたけど、
結局はマインドコントロールされてたのかもしれないです(笑)。
濱野さんがこの業界で働き出したのは、何歳の時だったんですか?
美容の専門学校を卒業した年なので、20歳の時です。
卒業後は、東京の理髪店に就職しました。
大阪にも転勤になりましたが、計9年間、その会社にお世話になりました。
なぜ、東京に行こうと思ったんですか?
単純に、都会に憧れて。
東京で働いていた理容店は、業界の中ではわりと大きな企業で、
当時、東京都内に6店舗、大阪に4店舗展開していました。
ハイクラスな客層をターゲットにしている店で、客単価が1万円を超えてたので、
価格は普通の理容店の2.5倍や3倍くらいだったと思います。
店内も高級感のある雰囲気でしたし、個室での個別対応にも、サービスの充実にも、
とことんこだわっていました。
例えば、財界の方だと「かぶっちゃいけない」お客さんっていらっしゃるんですよね。
そこは店側が予約のコントロールまでしてましたし。
と言うことは、常連さんが多いお店だったんですか?
そうですね。
新規客を断っていたわけではなかったんですが、
常連さんやご紹介のお客さんが多かったです。
技術的なことはもちろんですが、接客サービスにも力を入れていたので、
接客のイロハはここでみっちりと学びましたね。
そのお店を辞めて、知多に戻ってきたのは?
30歳になる年です。
きっかけは?
祖父の体調が悪くなって、
母から「看病に専念したい」と相談があったのもきっかけでした。
僕自身、いずれはこっちに戻って継ごうと思っていたので、
今かもしれないな、と思って。
東京からこっちに戻ってきた時は、戸惑いはありませんでした?
それはもう、ありましたよ。
東京の店は、接客レベルも高ければ客単価も高かったんです。
自分としてはそういう接客しかできないけど、こっちだと実際にお客さんが落としていく額は違うし、そもそも店に来てる目的すら、違う気がしてきて。
そこをどう自分の中で飲み込んでいくのか、悶々としていた時期はありました。
でも、だからと言って価格を上げるわけにもいかないし、
接客レベルを下げることもできない。
だったら、この店にしかできないことをしようと思ったわけです。